夫になる人と結婚する準備をしていると、ジュエリーショップやらドレスショップやら結婚式場が、住んでいる街にこんなにたくさんあったのかと驚かされる。今まで気にも留めていなかった。
子供が生まれた友人がしみじみ、エレベータってありがたいな、授乳やおむつがえができる場所って気に留めていなかったけどすごくありがたいな、と言っていたのと似た現象に思える。
自動車の免許を取って路上を運転するようになってから、街中の標識の多さにたいそう驚いたときにも似ている。
世の中、自分が当事者になってみないと気づかないことだらけだ。
免許を取って、結婚をして、周りの友達に子供が生まれて、毎月決まった額の給料をもらえて、土日がちゃんと休みで、日当たりのよいマンションの部屋に住んで、と。自分の属性がどんどんどんどんマジョリティの側に染まっていくのを感じる。
少し前まで、『30歳も近いのに学生』、『収入がかなり低い(免許を取得することができないくらいに)』という、広い社会の中で平均からすこしだけ外れる属性に、独身の女(恋人なし)という状態がついていたものだから、自分が「(社会が望む)『ふつう』じゃない側」というのを日常の中の些細な場面でよく感じさせられた。
「恋人いないの?」「結婚したくないの?」もよく聞かれたし、美容師やタクシー運転手、行きずりの見知らぬ人たちに「お仕事は?」と聞かれたりする度なぜか正直に答えるのが恥ずかしかった。貯金も全くないのに学会で外国に行ったりするものだから、同じ年頃の若者が楽しそうにスマートフォンで自撮りをしたり、リタイア済みの老夫婦が少し着飾ってきれいな景色に心を躍らせながらディナーを楽しむような欧州の国で、バキバキに割れたスマートフォンで安宿を探し、ユニクロで買った無地の衣料品に身を包んで1ユーロもしない粗雑なスナック菓子やパンで食いつないだりした。
当時は「卵と壁」の卵側に自分がいると強く感じたけれど、最近どんどん自分が「壁」の側になっているのを感じる。
見えなかったものが見えてくる反面、見えていたものがぼんやりとしか見えなくなっている。パートナーを見つけて、「社会が望む『ふつう』」と呼ばれるかたちの暮らしから幸せな気分を得ることが悪いのではなく、気づかぬうちに暴力的な存在になってしまうことが怖い。