ここから一番遠い海

夢日記,昔話

「救いたい」のではなく「救われたかった」

人間関係に困難を抱えていそうな学生さんがいる。最近ともに働き出した女性が眉間に皺を寄せ、目を丸く見開き、眉毛を上げ下げして、ふっくらした手で身振り手振り、ああでもないこうでもないとその子のことを話してる。この人の娘さんはその学生さんと同じ年頃のはずだ。

 

一生懸命にその子に話しかけているのだがなかなか心を開いてくれない。周りと仲良く話して欲しいが会話が1ターンで終わってしまう。疎外感や孤独感からなのか休みがちである。

 

そんなことを一生懸命話している。彼の行く末を良い方向に持っていきたい。彼の力になりたい、救いたいという気持ちでいっぱいなんだろう。彼女と同じように、私も眉間に皺を同じように寄せて顎や頬に手を添えたりして難しそうな表情を作って話を聞く。

 

ふっくらした白い手を一生懸命に動かして、年下の子を救いたいと眉間にしわを寄せる彼女を私は優しい人だなと思う。でも私は彼女が救いたい彼に積極的に手を差し伸べることはしない。

 

救ってあげたい、という気持ちを強く強く持って年下の人たちに接していたときがあった。その人のことを救いたいのではなくて、本当はかつての自分を救いたいと思っているのだと自覚的になったころから私は変わっていった。

 

救われなかった自分を相手に投影しているうちは、誰も救われなかった。何度も何度も自分を相手に投影しては、失敗し、相手も自分も傷ついていくうちに気づいていった。

 

結局できることは、相手が他人だとどこまでも自覚し、その境界線を忘れずにいた上で相手の要求にできる範囲で応えることなのだと、そんな気がする。

 

かつての私は、最近の私のそんな態度を「冷たい」とか「思いやりがない」となじるだろうか。でも、やっぱり相手の苦しそうな顔に昔の自分の傷を投影しているうちは、自分自身も傷ついたままで誰も救われなかったし、時には「自分が思っていた形と違った」と、救いたかった当事者になじられたりもした。

 

料理という技能を身に着けようとするとき。やけどをしないことには火を恐れる心は育たない。刃物でけがをすることもつきものだろう。私たち大人がすべきことは、火を囲い刃物を遠ざけることじゃなく、致命的にならない範囲でやけどや切り傷の経験をさせ、傷からの回復を適切に見守りながら、やがて血肉になりゆく知識・知恵の習得を見守りサポートすることなのだろう。そんなことを「子供の文化人類学」の一説をふと思い出しながら考えた。

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他人を救おうとする行為は相互の「傷の癒し」ではなく、他社の「失敗をする権利」や「失敗から学ぶ機会」をはく奪する傲慢な行為になりうる。

 

こういうことは、生きるのに必死だった20代の時にはあまり深く考えを掘り下げられなかったことだった。生きるというのは常に気づき、学んでいくことなのだなと痛感するこの頃である。優しい人間であり続けたい一方、匙加減を誤るとどこまでも自分は傲慢な人間になる。そういう自分のおこがましさに自覚的であり続けたい。

 

夢日記 音のない世界 温かい暗やみ

どこか違う国にいる。ロンドンなんじゃないかな。

 

洞窟の中のような柔らかく温かい暗がりの壁沿いに腰掛ける場所があって私はそこに座っている。

 

隣に整った顔立ちの女性が座っている。髪が長くて綺麗な目をしていて優しそうな顔をしている。私よりも年下に見えるけど、なんとなく、この人は私より先に生まれた人なんだろうなと思う。夢の中の自分はいつも20代の頃の自分で自分がわからず人に理解されず辛かった若い時の輪郭を持ってる。

 

綺麗な人だなと羨ましく妬ましく思う。20代の頃の私は自分の外見が可愛らしくないことが本当に嫌だった。この女性はこの可愛らしい見た目に加えてその明るい性格できっといろんな人に愛されてるんだろうなと思う。しかし私はそういう自分の羨望を痛切に恥ずかしく思う。こういう綺麗な女性を愛せる自分でいたいのに。

 

言葉は何も交わしていないけどその人が病気なんだとわかる。何か罪悪感のようなものを覚える。

 

ゆっくりとスケッチブックを取り出したその女性がロンドンの街の中にあった特徴的なマンホールをゆっくりゆっくりスケッチしだす。「病気が治るまではお休みする」とか「これがお休み前の最後の一枚」なんだというのがまたなんとなくわかる。

 

突然この人が、若い頃からずっと、あるソーシャルメディアでフォローしていたアカウントの持ち主なんじゃないかと勘付く。数年前に更新をやめてしまったあの人だ。

 

その人に話しかけようとするのにできない。そが耳が聞こえないみたいだった。音のない世界でゆっくりゆっくりとマンホールの絵を描き続けていく彼女の横に透明な私がいる。さっきまで妬ましく思ってたことも忘れ彼女の事を愛おしく讃えたい気持ちに溢れる。

 

洞窟はずっと仄暗いままだった。

死ぬのが怖い

死ぬのが怖い気持ちが10代のころからずっとある。

正確にいうと自分の親より先に死ぬのが怖い。

自分がもしいま何かの事故で死んてしまったら、めちゃくちゃに損なわれてしまったら。母親がどんな顔をするかということを想像すると胸が詰まって目頭が熱くなる。「親死 子死 孫死」、順番通りの死でありたい。そうでなかったらどうしよう。不慮の事故で子供を亡くした親御さんが、時の流れと共にちいさくちいさくおいていく姿をテレビで見るたびに途方もなくつらくいたたまれなくなる。親になったこともないのにどうしてそんな風に思うのかわからない。

べったり愛されて甘やかされて育ったわけではない。なんでこっちの気持ちを分かってくれないんだ、という反抗期だってちゃんとあった。今は離れて暮らしている。

私の母は私ができた様々なことをあきらめなくてはならない幼年期・青年期だったのだと、若いころの母の話を聞くと感じる。自分が受けたひどい仕打ちを自分より下の世代に受け継がせてしまう、負の連鎖というのは、その連鎖を断ち切ることに比べてずっと簡単な気がする。

「私があんなつらい思いしたんだからあんただってこれくらい」「なんで私はこんなに大変だったのに。ずるい。」というやつはたとえ言葉にされずともいろいろな人が苦しめられてきたありがちな呪いじゃないかな。

 

母がどうしてその連鎖を断ち切って私を育てることができたのか。私がもし、母の立場だったら、自分が享受できなかったものを当たり前のように享受している小さな、自分に似た女の子というのは、かわいさと同じくらい、「なぜ私はあんな思いをしたのにこの子は…」という羨望と苦い気持ちが入り混じった複雑な感情を掻き立てるように思う。私も子供を持ったらわかるのだろうか。

自分が受けた苦しさや傷をここで断ち切ろうとした母の毅然とした姿勢を思うと、月並みだけど私は母にとってかけがえのない存在なのだろうと、感情とか血のつながりとかを抜きに簡単に信じられる。

「プライド」とは自己中心的なふるまい、利己的な考えを頑なにすることではなくて「自分が受けてきた愛を守る力」だという言葉を大人になって知った。「これまで自分を愛し大事にしてくれた人たちを裏切らないこと」がプライドを守ることなのだと。

「死ぬのが怖い」という私の気持ちは、母が断ち切ってくれたもの、その先にいる今の自分、母への愛や尊敬の混じったプライドという感情のB面なんだろう。

どうか今年も何事もなく、生き延びることができますように。

善き人でありたい

イタリア滞在も気づけばもう終盤。3か月は長いようで短く…と言いたいところだがなかなかに長かった。帰りたい国、場所、誇れる文化があるってありがたい。この滞在でずいぶん自分の住んでる国とか、アジア諸国やそこに住む人々と私たち、私たちの過去について考えた。それはいろいろな知識が脳の中に大きな一つのネットワークを形成していくようで、だいたいとても面白くスパークや高揚に満ちていたけど、時と場合によってつらくしんどくもあった。

某北欧の国の人たちが釣り目のポーズをして話題になった時期(といってもまだ先々週くらいの出来事ですが…)はずいぶん傷ついたし、あれが欧州に住む人たちの隠された私たちへの態度なのかと疑心暗鬼になったりもした。実際、旅先や普段の生活で、突然「Cino!!」と大声で指さされ笑われたこともあったし、「你好!」と突然大きい声で叫ばれた後に笑われることもあった。そういった一連のことが続くと、人々の些細なしぐさや表情に何か必要以上の感情を見出しそうになってやっぱり疲れた。

それでも、この、イタリアという国の人たちは大半がとても私たちに良くしてくれた。クリスマスパーティに私たちを招いてせっせと郷土料理を食べさせてくれたり、つたないイタリア語をほめてくれたり、遠出に付き合ってくれたり、体調が悪い時に薬局で買うべき薬を教えてくれたり。古い知り合いのそのまた知り合い、というかなり心もとない縁を気にせず一日中無償で遺跡を巡りに付き合ってくれた人もいた。たとえそこに極東アジア人に対する隠されたバイアスがあるのだとしてもやっぱり彼らのそれは本当のやさしさだったと思う。

でも、それと同じくらい温かいのはやっぱり,中国や韓国から来た仲間たちだ。「私ウルトラマンダイナめちゃくちゃ好きなの!」とにこにこ話しかけてくれた中国人の女の子。「日本人?じゃあGrazieじゃなくて「アリガトウ」だね!」と言ってくれた韓国人の青年。パスタやピザに囲まれた生活で心が苦しくなった時に、箸で米を食べることのできる食事を出してくれる中国料理店や韓国レストランに何回救われただろう。今回だけじゃなくて、いままでだってそうだ。私が欧州や北米に出てぽつりとしていた時に日本人と同じくらい優しい言葉をかけて、辛抱強く私の言葉に耳を傾けてくれたのはいつも韓国や中国から来た仲間だった。

様々な文化があるこの大きな世界の中で、たくさんの共通点があってこんなにも互いに与え合い優しくなれるのに、どうしてか汚くののしりあい否定し差別し排除し攻撃しあう場面や世界線が存在している。悲しい。

国という装置,仕組みの単位で見たときに反省し襟を正すべきこともあればどうしても避けられない衝突もある。私個人の力でどうすることもできな大きなシステム・装置同士の衝突や摩耗のなかで、それでも、せめて、ただ一人の人間として優しく、良き隣人でありたい。私がこの国で感じた小さいけれど無視できない痛みを、せめて自分の国に帰ったときに、隣人たちに与える側にならないように。

根のない言語

今日は英語で会議の司会をした。たくさん間違えてしゃべっていたことだろう。「だろう」だなんてどこか他人事のように推察しているのは、喋ってる時自分のことを採点しないから。そういうことをすると喋れなくなってしまう。

 

自分で自分を採点しながら喋るのって1人で蟻地獄に落ちていく感じがある。気持ちや考えを誰かに伝えたいのに、ガリガリ鉛筆削りで自信が削られている感じがする。

 

正しく喋らなきゃ、ネイティブみたいに話さなきゃ、みたいな強迫的な思いから離れてしまうと英語という言語は私の心を自由にしてくれる。単語が区切られて並べられているのが綺麗な丸いすべすべとした石が並んでいるようで好きだ。

高校生の時、人に知られたくないその時の自分の気持ちを書いてみたら、ボキャブラリの乏しさや使いこなせる文型がシンプルなものしかなく、その描写力・表現力のなさがかえってメタファーに満ちた詩のような味わいになった気がしてかなり気分が良かった。

英語を喋る時すこし違う人間になれる気がしたし、英語が喋れるらしいときくやいなや、それまで若者、女と私を軽んじていた権力者がすこしたじろいで一目置くようになるのも痛快だった。(こういう人は英語が喋れないし、失態を人に見られなくないために英語を喋ろうというチャレンジ精神もない)

 

でもやっぱり英語は私の心に根差した言語じゃないからお酒に酔っているとき、とりとめもなくだらだらしゃべりたいとき、リラックスしているときには使えない。自分の上っ面をするするとすべってくいくそういう言語。苔の生えた石の上をつるつると流れていくきれいな水のような言語。

 

そんなことを考えながらお酒に酔ってだらだらと会議後の疲れを皆でねぎらいあっていると「日本語みたいに英語をしゃべるんですね」とにこにこ話しかけてもらえる。抑揚や強弱のない日本人特有の英語発音のことじゃなくて、雰囲気や物腰が日本語をしゃべっているときとまったくかわらない、ということらしい。

英語をしゃべっているときの自分は普段の自分から少し離れていて手あかのついていない自分になれている気がしたけど違ったみたいだった。

いつかそんな風に思ってもらえたことが本当になって英語が自分に根差していくといいなと思う。

 

大人になれてよかったこと

結婚していろいろなことが落ち着いてきた。夫というパートナーを得て、そこそこの収入を得て、オートロックがついているコンクリート造のマンションに住んで、週末にスーパーで「ちょっと贅沢」とか言いながら二人で、桃とかイチゴみたいな季節の果物を買う。若者だった頃は腹立たしいような恨めしさで眺めていた30代の中所得層のふるまいを自分もしている。

 

一方で私が毎日接する人々の年齢はずっと20代のままだ。大学には常に若者がいる。そしてだいたいみんな「若者」として通過していく。

「若いってそれだけですばらしい」ってかつては全然わからなかったけど最近なんだかよくわかる。目の前のあどけなさの残る顔立ちから、咲く前の花、芽吹きだした若葉や木漏れ日を見ているときに感じるようなさわやかさがある。平たく言っちゃうと皆かわいいのだ。

 

若さを称賛する年長者のそれを、私は「壮健さ」「若さゆえの美しさ(みたいなもの)」に対する年長者の恨めしさだと当時思っていた。「こんなへなちょこで傷つきやすくて不安や焦りとばかり戦っているのになんで「若い」というだけで賞賛され羨望されるんだよ」「誰しも若いころはあるんだからそんなこと言われても…」「風が吹いても倒れなさそうな強さや経済力のある方がよっぽど私はうらやましい」と、年上の人たちにこっそり思っていた。自分が特に努力して獲得しているわけでもない、同世代の全員が持つ若さという特性をほめられると居心地が悪くて、時に糾弾されているような気分になった。

 

でも最近分かったのだ。あれは羨望じゃなくて祝福だったんだなと。

 

試験監督とかいうありきたりなことをしているとき。20代くらいの若者が一心不乱に机に向かって問題を解いているのを見るときれいだなとふっと思う。女の子でも男の子でもそうだ。机に向かっている姿の奥に彼らの小さなころの姿が見える。赤ちゃんだった頃。歩き出し始めたころ。足し算や引き算を習いだしたころ。そして今の姿。ゆっくりゆっくりつぼみが開いていく様子や、新芽が伸びていく様子と重なってきれいだなと思う。月並みだけどすごく元気が出る。言葉にできない熱いものがある。それは性的な衝動とか支配欲のようなものとは全然違う。彼らがこれから遭遇する悲しみや苦しみに少しだけ思いをはせて、それでも彼らが幸せに生きていける世の中であってほしいなとお守りみたいなものを授けたい気持ちに襲われる。

 

年を取るのは悪くないなと最近思う。人間は木や草みたいなものなんだと思う。咲いたら終わり、ではなくて。老木には老木の美しさやたたずまいがある。花が散った後は実りがあり、その先にまた新しい花を育んでいける。人間って美しいな、とか、生きるって素敵だなと思う。そうやってものごとやできごとを祝福できるようになっていけるのが大人になれてよかったことの1つだ。

できごとに名前を付けない

結婚して名前を変える側になってしまった。自分が慣れ親しんできた姓と名がブツンと寸断され、上や左にドンと新しい姓が鎮座しているのを手放しで喜べない。私の名前であったはずのものに簡単に取り消し線や二重線を引かれる。その度にどうしてそのことが平気でこれまで受け入れられてきたのか理解できなくて心の中にめらめらと小さく一瞬火が揺れる。

名前を別にしたまま結婚することだってできるけど、これから離れて暮らすことになるかもしれない夫と名前まで違うと家族であることの証明が難しくなってしまうと考えた。それでも、やっぱり、プロポーズの言葉に「自分の苗字をあげる」なんて言い回しがあるらしいが、それを言える側にも言われて喜べる側にも私はなれない。

この手の議論になったときに、私が今まで歩んできた人生や考え方、親や周りの人から受けてきた愛情なんかはすべて置き去りにされひどい言葉でラベル付けされるのもうんざりする。

好きなものを買いなさいと母が1万円を振り込んでくれた通帳とキュウヨの文字が刻まれた通帳、そのどちらもが私という人間に属しているものだと示すだけなのにとっても時間がかかる。どうして私が私であり続けることにエクスキューズが必要なのか。どうして「夫を愛していない」という解釈に挿げ替えられるのか。

 

何度も何度も役所のある区画に足を運び続けることにつかれ、ある日タクシーに乗って役所から自宅に帰ることにした。

タクシーの運転手さんは男性で、私の父よりも背が高く痩せて年を取っているように見える。東北の強い訛りが感じられる。この人に私の気持ちはわかるまい。「結婚して姓を変えるってのはとんでもなく面倒ですね」とかなんとかぼやいた。

「あー、わかりますよ。私も婿に入った側なんでね。」

 

意外な展開になった。

 

「女房にね、こないだ『私に子供を授けてくれてありがとう』『婿に来てくれてありがとう』って言われたんですよ。

いろいろあるけど子供だよね、子供大事にしなきゃ。奥さんは大人だからわかってくれるけどさ。子供はちゃんと世話してかまってあげないとぐれちゃう。さみしくて。やっぱり子供、子供大切にしないといけないよ。」

 

なんと自分が返事したかわからない。

 

まだ自分の名前がどこか遠くのサーバで違う姓に乗っかって保存されていることとうまく折り合いをつけられないし、このタクシーの運転手さんとの出会いに名前を付けることもしたくないが、人生の中で向き合ってかみしめていくべきできごとに出会った気がした。

 

書いているうちに気づいたことが2つある。やっぱりこの世の中って思っているより「ふつう」が「ふつう」じゃないのかもしれない。他人にふつうを求められると苦しくて不快だが、他人には平気で「ふつう」を当てはめていた自分に気づいた。