ここから一番遠い海

夢日記,昔話

肉筆

付き合っている人と一緒に暮らすことになり、慌ただしく家の中を整理しているとおばあちゃんが生前私に書いてくれた手紙がそっとでてくる。

トメ・ハネが、ありありとわかるような力強い筆圧のボールペン字を見ているとばあちゃんのからだがもうこの世にないと言うことが信じられなくなる。

目を閉じておばあちゃんの綺麗な白髪や小柄な感じや、不満なことを必ず私の母づてに伝えてきたことを思い出す。

肉筆という言葉の中に含まれる肉の字が急に眼前ににじり寄ってくる。

読みかけの「サピエンス全史」を思い出す。「サピエンス全史」を読んでいた時、ドイツの小さな田舎駅のホームで、座面からしんしんと冷たさが染みてくる中、ストライキの情報に一喜一憂し、じっと列車が来ることを待っていた。

サピエンスは実体のないもの(法律、お金の価値、宗教、会社)を信じる力を身に着け生き残ったとユヴァル・ノア・ハラリが言っていた。

肉筆の「肉」の字からおばあちゃんが確かにそこにいたことを信じられることや、座面から伝わってきた凍えるような冷たさを思い出してドイツという国のことを思い出せるのも私がサピエンスだからなんだろうか。

装うことを軽んじない

美容師さんと「最近格好いい服装の人が少ないよね」という話をする。そう、かっこいい装いの人というのが最近かなり少ないのだ。

- とりあえずGUかユニクロ無印良品でみたいな若い人、本当につまらないよね。
- 私服の制服化も結構ですけどなんか味気ないですよね
- 無印良品っていうか無味乾燥って感じ
‐ でも、お金持ってる層、大人もひどくないすか?お金にものを言わせてとりあえずロレックス、バーキン、その他ブランドもん買っとこうとするみたいな…

 

という私たちの間で結構お決まりになっている会話をする。
貧乏な学生だった頃の経験を掘り起こせば、確かにああいったファストファッションブランドというのは、手ごろな価格でいろいろな洋服を選べる喜びがあってかなりたすかったんだけど、「そういうのばっかり」なのがどうも気になるのだ。なんていうか、内田樹のananの話を思い出す。

www.amazon.co.jp


とりあえずの正解を狙う、人と同じような装いで平均点を狙う、という姿勢。そういうのが装うことを軽んじる視線に見えて、そのうち生きることまで軽んじていくような気がしてかなりいやだ。たかが服の一着から、生きていくことを後押しされる力をもらうことがあるというのに。

 

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。 これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

『葉』,太宰治

 

別にこの一説は服というものの力を高く評価する文脈でのものではないが、初めてこの節を読んだ夏に、手触りの良い、深い紺色のカシミヤセーターを買った。太宰が夏までを生きようとしたみたいに、冬までしっかり生きていたかった。

 

threadsを何となく上に下にスワイプしていると、ご自身の経験・感性を基により具体的な言葉で、私の持つ違和感をすっきりさせてくれることを述べておられる投稿があって思わずブックマークボタンを押す。

 

www.threads.net

 

じゃあ、お前は魅力的な人間なのか?と問われると答えに窮する。モードと呼ばれる類のファッションを理解したくて数冊本を読んでみたけど、ああいうパワーのある服を装える収入も気概も、私にはない。

でも、なんていうか、「平均」を狙う、そういう人間ではありたくないし、平均を狙わないで生きていくことはせめてもできるよな。

滅茶苦茶な気持ちの日に

人に優しくしてもらってどうにかどうにか、滅茶滅茶な気分を乗り越えられたこと、救われたことを普段忘れてる。

普段そんなことがあったなんて全く忘れているし、これまでもこれからも心身ともに健やかに涙なんて流さず生きている気がするけど。

 

たまにハッと思い出すのが、21歳の夜中、自分以外誰もお客さんのいない美容室で泣いてしまったときそっとティッシュを渡してくれた美容師さんのことだ。

 

散髪代を浮かせたいという、貧乏くさい学生じみた発想でカットモデルを募集している美容室の噂を嗅ぎつけてそこを見つけた。

どう言う文脈でそのことを話し出したのわからないけど、ずっと友人だと思ってた人と心が通わなくなり、一方的に絶縁を言い渡されたことをポツリポツリとその美容師さんに語るうち、感情が昂って涙が出てきてしまった。

 

自分ばかりが悪者にされている理不尽さ、ずっと友人だと心から信じていた人達に裏切られた悔しさ、反撃や喧嘩も許してもらえず一方的に絶縁されたことへの怒りと惨めさでぐちゃぐちゃだった。

 

涙をボロボロ流す私にそっとティッシュを差し出してくれた美容師さんのあたたかな寂しい眼差しが忘れられない。

 

もう大人になってそういうみじめな日があったことを少しずつ忘れていきそうになるけど、たまにあの日めちゃくちゃな気持ちだった私やそれを助けてくれたあの人たちを思い出しては、謙虚に生きていたい、と思ったりする。

夢:だからMicrosoft Wordは嫌いなんだよ

喋った言葉が頭上の「フキダシ」に文字として投影される仕組みができた。喋った言葉が即座に文字になって頭上に浮き上がるやつだ。

 

私はシンガポールのでかいショッピングモールにいる。アウトレットにありがちな、きれいな白い中庭を階下に、テラスのような場所で迷子になっていた。誰かとはぐれてここにいるような気がする。その「誰か」というのは複数人のような気がするし、その人たちは、私が個人的な意思や希望をぐっと飲みこんで、物静かにやり過ごさなきゃならない、そんな関係性の人たちのような気がする。気の合わないクラスメイトと一緒にまるで興味のない班行動をしなきゃならない修学旅行のような感じ。

 

非を受けてさらに白く反射して光る中庭やそこにある噴水から目を離し右手側を見ると、ショーウィンドウの中にポケモンサンエックス、サンリオなんかのキャラクターのぬいぐるみがぎゅうぎゅうに押し込まれている。ショッピングモールというより、捨てられずに溜まっていくぬいぐるみたちの墓場だ。

 

急にあたりがほの暗く薄汚い場所になった。シンガポールのあの真っ白で暑くて清潔で知的な印象が消え、ただそこがアジアであるとわかるだけの猥雑さが残された。

 

急に不安と焦りが湧き出て、はぐれた人たちに合流しなきゃいけない、と、くたびれたイタリアンレストランに入る。恰幅の良い中国系の女性が英語で話しかけて来る。英語が通じることに安心する。いまや3D字幕投影システムがあるので、仮に英語が聞き取れなくなったとしても、彼女の頭上にある「フキダシ」を見れば意思の疎通には困らない。「○○はすでにチェックしたか?」というような質問をされる。私はすでにそれに関する確認を終えてそれでもなお迷子が解決していないことを答えようとする。「Year, I have already checked ...」と発言すると、私の頭上のフキダシにも小気味よく英単語が現れていく。

はずだった。

 

どう頑張っても「I have already checked」以降の言葉が音声認識・文字出力されない。なぜだ?と頭上のフキダシをまじまじと見ると,「checked」の出力箇所が「ed」になっており、勝手に変換待機しているではないか。

 

だからMicrosoft Wordは嫌なんだよ。しなくていい字下げをしたり、しなくていい先頭文字の大文字変換をしたり、と悪態をつく。世界標準のシステムになぜ記号変換を入れようとするんだ?馬鹿じゃないのか?

 

そこらへんで目が覚めた。

 

ワンクール終わった

以前好きだったその男の子と職場が一緒なので顔を合わさないわけにはいかない日々が続いている。彼には告白してしっかり振られた。わざわざ「わたし、もう好きな人が別にいて付き合っていて互いの家族にも紹介しあっているんです」と報告するのもおかしな話なので、そんなことしない。相手の男の子にとってわたしは、「自分に思いを寄せてきた職場の先輩(独身・30代・こっぴどく振り済み)」という気持ちの悪い属性でしかないのだろうと日々うっすらと申し訳なかった。

 

しかし私のそういった思いをよそに、年下の男の子はよく私に話しかけてきた。相変わらず休憩をしていると合わせて休憩に入ってくるし、黙って茶をすすっていたいときにも熱心にこちらに話しかけてくる。一度夜遅くまで働いていたときには車で家まで送ろうか、とまで申し出られた。フラれる前に同じ状況になったとき、そういう言葉はとんと出てこなかったのに。

 

そういう彼のよくわからない行動の増加と反比例して私の中での彼に対する執着はすっかり消え去っていた。私のことを大切にしてくれる年上の恋人ができたのもあるし、「あなたのことは女性としてみていないししばらく彼女を作るつもりもない」とかなりひどい言葉できっぱりフラれたのもある。

いろいろなことがどんどん思い出になりつつあったのに、先週の飲み会で、彼に恋人が新しくできた、という話を聞いて突然その男の子に対してあった人としての親愛の情が掻き消えてしまった。カードをぽんとひっくり返したみたいに、嫌悪感が生まれた。

 

「あと数年は彼女を作るつもりはない」と言っていた1か月後にマッチングアプリをインストールして出会った年上のOLと恋人同士になったらしい。私が隣の席にいるのに気づいたとたん、「友人の紹介で出会った」と事実と違ういきさつを話しだしたし、「恋人がいる」と私の前でばらされたことに明らかに狼狽していた。

 

なんだか気分が悪かった。相手に未練があるからとかじゃない。

その気がない相手に告白されるのってかなりいやな体験だと私も知っている。だから、告白するとき、神に誓って脅したり身体的に接触したり、追い詰めるような言葉遣いもしなかった。

そういう相手に「異性としてみていない」と必要以上に強く、傷つけかねない言葉遣いをし、「あと数年恋人を作るつもりもない」とカッコつける必要があったんだろうか。そうやって斜に構えているわりに、私からの好意を損ねないように思わせぶりな対応だけしっかり続けてくる。

私に好意を寄せられていること、その好意を嘘や必要以上にキツい言葉ではねつけることに少なからず優越感を感じていた・いるんだと急にわかって、相手のことが嫌いになってしまった。

 

恋のワンクールが終わった。

 

心の中が冷めきってしまって「どうしてこんな人を好きになったんだろう」という気持ちにすらなってしまう。あんなに恋焦がれて夜眠れなかったりしたのに。

やっぱり片思いって幻想で、頭の中で勝手に繰り広げられる誤解と妄想で頭がマヒしているだけなのかもしれない。

 

今はただ自分のことを大切にしてくれる恋人のことを大切にしよう。

喫茶店とカフェの違い

もう3年も前のことになるけど、勤めていた会社や、ひっきりなしに耳をつんざくような救急車のサイレンが聞こえるアパートがある練馬区が、東京が嫌で嫌でしょうがなかった時、小さな喫茶店によく足を運んだ。

レトロでかわいらしいプリンやフルーツポンチに年頃の子がきゃあきゃあいうような最近のああいうやつじゃなくて、日に焼けた背表紙のゴルゴ13とかコンビニでしか売っていない分厚さの課長島耕作なんかがずらっと並べられている、机がちょっとべとっとした、まあいわゆる「喫茶店」だ。

会社だったり会社の上司だったりとのやり取りの中で、自分という人間がちっとも理解されずただただ「オンナ」というラベルの付いた傀儡のようにいるのを求められて、だいぶ傷ついていた時期だったので、お洒落なカフェにいって可愛いパンケーキやパフェを食べる気力が全くわいてこなかった。

自分にとってそういった場所の刺激が強すぎたというのもあるけど、そういう場所に自分がそぐわない気がした。

対してその喫茶店はつらい時やテンションが上がらいないとき、その状態でいることを受け止めてくれる感じがあって好きだった。

 

今日ふとTwitterを見たら、BOOKS 青いカバのご主人がルノアールのことを「疲れた人々がその疲れを隠さなくていいお店」と表していて、自分の考えにぴたっとはまるその説明に、かつて腹も減っていないのに頼んでは食べていたあの喫茶店のカレーを思い出したのだった。

 

私が求めているのは、カフェについてはエンターテインメントで、喫茶店に対しては癒しなのかもしれない。

読書・沼の底・版木

実家に帰ってのんびり過ごしていると、最近読書の習慣が保てていないということに急に気づかされる。

読書の習慣や読書に求めるものは、幼少期と最近でもう、がらりと変わってしまった。かつては目が覚めるような何かや時間があっという間に過ぎていくあの感覚を求めたけど、今は、読み終わることをあんまり目的にしていない気がする。そうは言っても、一冊の本に区切りをつける、というのは、やはり読了することに等しいから、いちおう、読了を目指す。日々の細切れの時間の中で、あれ?これはどこまで読んでいたっけかな?と繰り返し繰り返し同じ頁を読んでいると、体の奥に言葉や考えを刻み込んでいるような、肉薄する感覚を覚える。

「眼球の動作と脳の感覚」というより彫り込まれた版画の銅版を指で静かになぞっているような、より肉体的な何かを感じるのです。

そうやって、細切れの時間の中に、繰り返しよむ一行一行の中から、特に心に刺さるものを、疑似的な肉体感覚と共に心に刻み付けているとき、沼の底に粛々と石が沈められていく様子が想起される。

こうやって、沼の底や沈められる石、何かが彫り込まれた銅板の様子を想起し、それと自分の感覚や精神を重ねるのが今の私にはすごく心地よい。小さな頃は、つぅっと通り過ぎた小径を、水切りにあそんでいた小石を、ためつすがめつ味わっているような、そんな気分になる。

 

そう行った読書体験をしていると、日常のふとしたとき、ぷかりぷかりと何か泡のように浮かんでくる思いもよらないものがあり、そして同時に懐かしさに満ちた彫り込みの手触りがあり、今の私にはそれが楽しい。

 

谷川俊太郎が詩の中で「小さなころの自分は現在の自分の中にきちんと存在している」というようなことを「幼い日の自分は年輪の中心にいる」と例えていたことをふっと思い出す。読書に熱い感動を求めていた自分が年輪の中心にいる様子を想像してみる。そしていまの自分がいちばんの外見(そとみ)、年輪の外側にあることを想像してみる。

 

とりあえず今日は紀伊国屋書店で2冊、Amazonでもう2冊、読んでみたかった本や好きな作家の未読本を買いました。夏休みがもう終わってしまう。