ここから一番遠い海

夢日記,昔話

読書・沼の底・版木

実家に帰ってのんびり過ごしていると、最近読書の習慣が保てていないということに急に気づかされる。

読書の習慣や読書に求めるものは、幼少期と最近でもう、がらりと変わってしまった。かつては目が覚めるような何かや時間があっという間に過ぎていくあの感覚を求めたけど、今は、読み終わることをあんまり目的にしていない気がする。そうは言っても、一冊の本に区切りをつける、というのは、やはり読了することに等しいから、いちおう、読了を目指す。日々の細切れの時間の中で、あれ?これはどこまで読んでいたっけかな?と繰り返し繰り返し同じ頁を読んでいると、体の奥に言葉や考えを刻み込んでいるような、肉薄する感覚を覚える。

「眼球の動作と脳の感覚」というより彫り込まれた版画の銅版を指で静かになぞっているような、より肉体的な何かを感じるのです。

そうやって、細切れの時間の中に、繰り返しよむ一行一行の中から、特に心に刺さるものを、疑似的な肉体感覚と共に心に刻み付けているとき、沼の底に粛々と石が沈められていく様子が想起される。

こうやって、沼の底や沈められる石、何かが彫り込まれた銅板の様子を想起し、それと自分の感覚や精神を重ねるのが今の私にはすごく心地よい。小さな頃は、つぅっと通り過ぎた小径を、水切りにあそんでいた小石を、ためつすがめつ味わっているような、そんな気分になる。

 

そう行った読書体験をしていると、日常のふとしたとき、ぷかりぷかりと何か泡のように浮かんでくる思いもよらないものがあり、そして同時に懐かしさに満ちた彫り込みの手触りがあり、今の私にはそれが楽しい。

 

谷川俊太郎が詩の中で「小さなころの自分は現在の自分の中にきちんと存在している」というようなことを「幼い日の自分は年輪の中心にいる」と例えていたことをふっと思い出す。読書に熱い感動を求めていた自分が年輪の中心にいる様子を想像してみる。そしていまの自分がいちばんの外見(そとみ)、年輪の外側にあることを想像してみる。

 

とりあえず今日は紀伊国屋書店で2冊、Amazonでもう2冊、読んでみたかった本や好きな作家の未読本を買いました。夏休みがもう終わってしまう。