ここから一番遠い海

夢日記,昔話

老人と海、スノッブ

(0818記)

 

上司と雑談していた時、「老人と海」を書いたのはヘルマン・ヘッセだと誤って返答してしまった。ヘッセが書いたのは「車輪の下に」なのに。

 

老人と海を書いたのはアーネスト・ヘミングウェイだと気づいたのは自席に戻って、「あれ、なんか違う気がする」とGoogleの検索窓に「老人と海」を叩き込んだ後だった。

ファミリーネームが「ヘ」で始まってるというだけでこんな風に間違える。こういうやつをスノッブと言うんだよ、アンダーソン君。

罪と罰を書いたトルストイとロリータを書いたナボコフを間違えていたことにも気づいた。どちらもきちんと読んだことはない。私こそがスノッブだ。

 

そんなことが頭の片隅にこびりついていて、新幹線を待つわずかな時間に、ごった返す改札内の隅にひっそりと、しかし煌々とたたずむ書店で思わず「老人と海」の文庫本を買ってしまった。

最近新約が出た、というのは何かの偶然だろうか。本も物も、真に巡り合うべきときに自分のもとにサインが送られてくるというのが私の信条だ。

 

私は、「老人と海」のあらすじ、この老人に小説の結末として与えられる運命があんまりにもせつなく感じられて読むことをずっと遠ざけていた。

 

でも、大人になった今、知っている結末に向かいゆくまでの「この後どうなるんだろう」を楽しむだけが読書じゃないと知っている。

行間にそこはかとなく漂う海の煌めきや年老いた男の哀愁、岸辺に現れるライオンと夕陽なんかを楽しんであとがきにたどり着いた。

 

で、もう一つの秘密というのはこうです。シンボリズムなどはありません。海は海、老人は老人。少年は少年で、魚ら魚。サメはサメ以外の何者でもない。世間でいうシンボリズムなどはゴミです。

 

人がこの作品にさまざまな寓話性を読み取ろうとしていたことに対してヘミングウェイはそう言ったらしい。

物知りぶりたいスノッブの頭をかち割るような痛快なコメントだ。

 

でもまあ、一人のスノッブとしては、評論家のマルカム・カウリーがヘミングウェイにしたためたという次の一節の方がありがたいな。

 

そして読者は、キャラクターとストーリーの中で、それらが自分に示唆するシンボリックな、あるいは神話的な特質を読み取ればいいのだ。

ヘミングウェイ キューバの日々」 宮下嶺夫訳

 

私はこの本を、哀れな老人の孤独な漁の物語とは読み取らない。