ここから一番遠い海

夢日記,昔話

屋根の低い街並み

八戸に用事ができたため正月明けの平日、休みの感覚が抜けきらない体をどうにか起こして東北新幹線に乗車する。

東北新幹線から見える景色はきれいだ。田、山、まばらな人家、夕焼け、雪化粧した木々。

 

東京に少しだけ住んでいたころ、「東京には何でもあるから便利でしょう」とか「東京は住みやすいでしょう」とかそういう言葉をよくかけられたから。

そういう言葉がけが、地方を愛する人間を「文化の香りのない辺鄙な場所から来た憐れな人」と侮辱しているということには全く考えが及んでいないみたいだった。

私から言わせれば、そういうことを言うかれら(大体の場合23区を指して東京と言っている人々)にこそ何もない。

そんなことを考えていたら、ちょうど持ち合わせ読み進めていた岡潔の「数学する人生」にこんな言葉が出てきた。

 

とにかく、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞くこと。

蛙の鳴き声でも調べはあります。自動車の爆音には一向にありませんが。風のそよぎ、小川のせせらぎ、みなこうして聞いたらよい。

そうすると、来る日も来る日も、生き甲斐が感じられるどころではない。日々新たにして、趣の違った生き甲斐が感じられるでしょう。

岡清著・森田真生編,“数学する人生”,一.最終講義,懐かしさと喜びの自然学,「不生不滅」,p.57,新潮文庫

 

そうそう。本当にそうだよ。

『あなたたち、蛙の鳴き声や風のそよぎや小川のせせらぎに目を閉じて耳を傾けたご経験はおありで?ビル風や自動車の爆音ではなくて。』

 

私はあるよ。

 

そんなことを思いながら流れていく東北の景色を見やる。

少しでも南に行ったなら見れなくなりそうな灰色の木々が埋め尽くす山々を見ながら、岡潔みたいな研究者に、最期なれたら幸せだなあ、と思う。

 

しかし岡潔はこういう移動の時間にも数学をしていたんだろうから、私が岡潔になるためにはもっともっと自分の研究にのめり込み夢中にならなければならないようだ。

 

八戸駅につくと、遅めの帰省と思しき親子のうちの子供が寒さに悲しげな声をあげていた。

坊や、こういう屋根の低い街の夕焼けの美しさをきちんと心に留めて大人になるんだぜ。

 

そんな風に格好つけて独り言ちていた罰があたったのか、復路の新幹線に「数学する人生」の文庫本を忘れてきてしまった。

カッコつかないなあ。