ここから一番遠い海

夢日記,昔話

ブレードランナー2049・ニューヨーカー・研究者

正月早々奮発して集英社の季刊誌、「kotoba」のバックナンバー4冊を買う。

最高だ。

 

最近アニメ版を再鑑賞している「ジョジョの奇妙な冒険」の影響もあって荒木飛呂彦が寄稿している「悪の研究」をカートに入れる。すると弾みがついてしまい、「ブレードランナー」、「人間拡張はネオ・ヒューマンを生むか?」、「日本人と英語」を次々カートに入れ決済ボタンを押してしまう。

 

kotobaは、雑誌というにはずいぶん分厚い季刊誌なのに、間に合わせで依頼したんだろうな、という寄稿が一つもなくて毎度惚れ惚れする。

しっかりを前を向き、真剣に何かを問おうとしている。知識のある、成熟した人間が、本気でものを書いている。こんなに秩序だって静謐で熱く密なものを雑誌と呼べるのか。

 

早速「ブレードランナー No.31」を読む。

私はブレードランナー2049が大好きな映画の一つなのだが、より正確にその愛着を表すなら、ブレードランナー2049の中に登場する「人間として生まれついていないもの」たちのことが心から愛しいのだ。

レプリカント」や「ホログラム」といった、「人間ではないもの」たちは、人間と比べてはるかに屈強(もしくはロバストに)作られているというのに、(ブレードランナー2049では)終始救いが訪れることはなく、なぜか儚く、でもそのことが一層、彼らを愛おしいものにしている。

内田樹ブレードランナー2049の登場人物たちを「人間として生まれたもの」と「人間になろうとするもの」の二つに分け、終始救いの訪れなかったレプリカントやホログラム(人間になろうとするもの、人間として生まれつかなかったもの)の存在に救いを与えている。

 

もし「『ブレードランナー』世界の哲学的な主題は何か?」と問われたら、私ならこう答えるだろう。「人間として生まれたもの」と「人間なろうとするもの」のどちらがより「人間」の名にふさわしいか?『ブレードランナー』は新旧作ともにこの問いに対してはっきりと答えを示した。

 「人間」という呼称は、「人間として生まれついたもの」より「人間になろうとするもの」にふさわしい。

(“レプリカント人間性について”,内田樹,p. 13,kotoba 2018 Spring Issue No. 31,集英社,2018)

 

読んでいたら肌が泡立ってしまった。

 

私はずっと、「ニューヨークを形成しているのは、ニューヨーカーであろうとする人たの振る舞いである。」という丸山ゴンザレスの言葉が好きだ。
この言葉とともに添えられていた(気がする)「ニューヨーカーとはニューヨークに生まれたもの、ニューヨークに住んでいるものではなく、ニューヨーカーたろうとするもののことなのだ」というスピリットが自分の生き方に親和すると思ったからだ。

 

「研究」という営みで身を立てていこうと決めたものとして、何か大切にすべきエッセンスの詰まった言葉だと思ったのだ。

 

曲りなりにも「研究者」という職業につけた今、やはり強く思うのが「研究者であること(ex., 大学の教員になる、研究所の研究員になる)」に安寧するのではなく「研究者であろうとすること」が真に自分を研究者たらしめてくれるということだ。

「何かであろうとするその姿勢」のことを、「アティチュード(態度)」という言葉で称するのであれば、内田樹の言葉は、「そのものであろうとするアティチュード」を「そのものであること」よりも祝福してくれている。

 

映画の中で「レプリカント」や「ホログラム」たちに、わかりやすい祝福や救いは訪れないけれど、私は彼らのそういう「より人間らしくありたい」という愚直なアティチュードがたまらなく愛おしい。「人間として生まれついたもの」たちよりもずっとずっと。

 

新年早々良いものを読んだ。