ここから一番遠い海

夢日記,昔話

解釈してはいけない

宇多田ヒカルの「誰にも言わない」をよく聴く。
「一人で生きるより 永遠(とわ)に傷つきたい」とか
「今夜のことは誰にも言わない」なんて言葉とか
字面にしたり、セリフとして声に出すにはしっとりしすぎている言葉が
水のようにさらっと耳から流れ込んできて聞いていてすごく気持ちいい。
ぷかぷか水の上に浮いているみたいなほんのりとした良い気分になる。

 

「今夜のことは誰にも言わない」って相手に言ってから夜が始まるようなそんな関係ってあるよな、って思う。
友達に言うと心配かけちゃいそうな相手だし、傷つくかもしれないけど、それでも今夜一緒にいたい、という瞬間ってあるよな、と思う。
私にそういう経験はないけど、でも、「きっとそういうことってあるよな」と感じとる。
それ以上は考えない。考えて考察して解釈するのはどこか無礼な振る舞いに思えるから。


インターネットで曲名を検索してみると、この歌詞についての「考察」とやらが大量に出てくる。「不倫など道ならぬ恋のお相手との関係を描いた歌」とかなんとか。

そういうことじゃないんだよな。

 

誰かとの関係を無理やり、既存の定義に当てはめようとする「解釈」とか「考察」って暴力だ。

 

私は谷川俊太郎の「あなたはそこに」という詩もとても好きなのだけど、
あの詩がとても好きなのも、きっと、誰かとの関係に「定義」を持ち込まない曖昧な愛があるからだ。

 

「あなたはそこに」に登場する、「あなた」を無理やり定義するなら、

「(主人公である男の私にとって)友達以上恋人未満のまま、互いに結婚した後も依然として特別な輝きを放っていた、今はもう死んでしまった女性」になると思う。

でもそういう詳細な説明・定義から読み取れることなんて外野がけちをつけるための粗くらいしかない。そこに当人たちの本当に大切にしているものなんてない。あなたが風呂吹き大根を食べていたこととか。全て諦めて一人でい続けるんじゃなくてそれでもあなたを愛したいと何か相手を超えた自分の人生に挑戦し続ける姿勢とか。

 

そういうことってあるんだよ。

 

恋とか、尊敬とか友情とか、片思いの相手とか、結婚相手とか、親友とか、不倫相手とか、そういう定義を超えて私たちの人生で輝き続ける存在、その人との関係のおかげで生かされ続ける存在、たとえその人が失われても私たちを活かし続ける存在、そういう人が、関係がある。

 

そういうことって、きっと「解釈」して「考察」して「定義」することではわからないと思う。